崩れる、腑抜け、滑稽の極み
身体の記憶も失われる
相変わらず、崩れている。
崩れるだけではなく、日常生活の「当たり前行動」を忘れてしまう現象が起こるようになった。
まるで、肉体の記憶すらも崩れているようだ。
例えば、崩れたあとに、立てなくなる。
正確には、立ち方がわからない。わからないのだ。
足や腕をどう動かせばいいのか…頭が真っ白という状態になる。崩れたまま、動けない。
時には、声の出し方を忘れる。
頭には発したい具体的な言語はあれど、声が出てこない。
ご飯の食べ方がわからなくなることもある。
食べ物と言う認識はあるのだけれど、どうやって食べるのかがわからない。箸を使うことも忘れ、箸の使い方も忘れるといった状態だ。
風呂場に行って、何をすればいいのかわからなくなったりもした。
ここはなんだ、なにをするんだ。なにをしに来たんだ。
こういう「物忘れ」も、解離性健忘なのだろうか。
次回の診察で、主治医に訊ねてはみる。
しかし、薄々わかっている。
崩れる現象に薬や対処法がないように、こういった忘れる現象にも薬や対処法がないだろうと。
「(病院に)行っても治らないよ」「行く途中で崩れたらどうするの」との声が響く。私は、睡眠薬が必要でしょうと声に出して答える。
ベンゾジアゼピンの処方を貰う。
それだけでも、十分病院に行く意味があるだろう。
ベンゾが無いと全く眠れないくせに、よく言うよ。
自分の知らない自分が生きている
できないことが、どんどん増えていく。
自分の知らない自分のことが、どんどん増えていく。
自らの意識が及ばぬところで、確かに私は生活している。
私の知らない私に関する記憶が、他人の中に幾つも存在している恐怖。
私はいわゆる「多重人格」であるらしいが、私の中には私しかいない。
これは幸運でもあり不幸でもある。
人格が交代していようとも他人から見れば私でしかなく、「私」でないことには気付かれない。
この世で最も理解と制御が困難な事象は自分自身についてではないかと、最近思う。
意識、記憶、肉体、心。
形を変え続ける自分を理解し制御すること、自らに追いつくことは可能なのか。
「答えが出ないことを考えるのは止めなよ」「答えがないこともある」などと声が聞こえる。
他人が深く考えないことを考え抜くからこそ、行き着いたところもあっただろうと、私は声に出して答えた。
その後の言葉は聞こえないふりをした。
爆音で音楽を響かせ、黙らせた。
人格はおろか身体の記憶すらも、コントロールできないなんて。
奇々怪々、滑稽の極み。